当時、娘が中学受験をして入ったキリスト教主義の学校の、父母の会活動でのこと。
聖書を読む会に、理科の先生がゲストで来てくださり「僕は熱心なクリスチャンではありませんが、一番好きな聖句です。」っと、シェアしてくださった言葉がありました。
瞬時に涙が溢れました。
こんなことも、ありえない話。娘を育てる際にも「女の涙ほど卑怯なものはない。泣きなさんな。」と繰り返していましたから。
暖かさ、光、慰め、確かに自分を見続けてくださる存在がいる。
論理的思考がストップし、具現化できない体験でした。
理解できないけれど、内側で理解できる。
聖書の見立てでは、それは私たちを造られた方、父なる神だからだと言います。また、聖書の言葉はーー
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。”
テモテへの手紙 第二 3章16節
人の手で、思いで(収穫のためとか、安産のためのとか、成功のためとか)作り上げた神とは、違うということなのですね。